僕はNYで、とあるフォトグラファーのアシスタントをしている。
僕の父よりも歳上のボスは、かなりベテランのフォトグラファーだ。専門の学校を出たわけでもなく経験もゼロの僕が、なぜ採用されたのかは分からない。けれど、せっかくつかんだチャンスを無駄にするわけにはいかない。爆速で突っ走る列車にしがみつくようにして、日々アシスタント業務をこなしている。
そんななかで、僕は彼に出会った。
彼はある撮影の被写体で、僕は3度、彼に出会うことになった。
特徴のある名前のその彼は、 ある有名なボーイズグループのメンバーだった。
僕は彼をよく知らなかったので、事前にネットで軽く検索してみたところ、整った顔立ちの青年が少しバタくさい感じのコスチュームに身を包んでいる、そんな姿ばかりが出てきた。
ファンの中に住む彼を、大人の男性へと脱皮させたい。事務所側のそんな意図もあって下着が主流のブランドのオファーを受けたのかもしれないな。そんなことを考えていた。
これが最初。
果たして撮影当日、彼は休暇中の大学生のようないで立ちでやって来た。 思ったより長身で、オーバーサイズ気味のゆったりしたデザインの黒色の上下。ウェーブがかかった前髪に隠れがちな瞳の動きから、少し人見知りする性格が伺えた。訛りのある英語で「はじめまして」と彼は言った。
その彼が準備を終えて出てきた時、僕はへぇ、と思った
衣服の隙間から見える筋肉に男らしさを誇示するような重量感はなく、俊敏さと力強さの獲得を同時に目指したような、ソフトなストイックさを感じさせた。そしてその右腕にはびっしりとタトゥーが彫られていて、逆に左腕には何一つ手が加えられていないようだった。その対比が、彼のなかに残る純粋さを強調してるように思えた。
そしてそのイノセンスの香りは、彼の顔へと繋がっていた。ほどかれて艶を出した髪が少し濃いめのアイメイクを施した顔にかかっていて、大きな黒目が、スタジオに置かれた照明を反射して水面のように揺れてきらめいている。周りを伺うようなその表情には、恋を知ったばかりの少年のような瑞々しさがあった。
これが2度目の出会い。
そして今、ボスのオフィスで、僕は改めて彼に出会っていた。
撮影の序盤、ボスの指示に従って動く彼の姿は思いの外しなやかで柔らかく、魅力的だった。ダンスや歌などのパフォーマンスを生業とし、普段から観客やカメラの前に立つ生活をしているだけのことはあった。
けれど...と、僕は彼の表情を見ていて思った。どうしても、ボスのディレクションをそのままこなしてる感じは否めない。言語の壁もあり、通訳が居るとはいえ、細かく指示を出すことで雰囲気を作るのもきっと難しいはずだった。
クライアントが、そしてボス自身が満足するものを、この彼から引き出せるのか?
結果から言うと、その考えは杞憂に終わった。
今、モニターに映っている彼は全くの別人だった。
画像の中の彼は集中していて、周りの空気はぐっと凝縮しているように見えた。瞳は湿り気を帯びていて肌はピンと張り、胸を覆っている布が描く起伏がとてつもなくセクシーだ。
彼の欲しいものはハッキリしている。
今、僕は彼に誘われていた。
僕は喉が渇くのを感じた。世の女性達も同じように、心の中で彼の素肌に身を預けながら、このタトゥーの入った長い指が自分の肩紐をそっと下ろすところを想像するんだろうか。
いや、そうじゃないな。
僕は、何か見てはいけないものを見ている気持ちになっている自分に気がついた。だからこんなに動悸が速くなっているのだ。
その何かを見ないように自分の目を覆っている指の隙間から、僕の本能が這い出して彼へと手を伸ばす。彼は僕のその手に自分の指を絡めて、自分の腰へと僕の手を誘う。心の奥をはだけてみせ、僕に懇願している。
受け入れて、と。
彼をもっと焦らしたい気持ちもあるが、もう抗えない。僕は彼の上着を脱がし、肌着の裾に手を入れる。彼は次にくる瞬間を待ちきれずに息を吐き、そして...
「どうだい?」
とんでもないタイミングで声をかけられ、僕は文字通り飛び上がりそうになった。
慌てて振り向くと、後ろにボスが立っていた。
「どうだい、彼は?」
そう言いながら、ボスはうろたえている僕を面白そうに見た。
いいですね、とても。
思わず上擦った自分の声に焦りながら、なんとか体勢を整えようと息を吸った。そして、カッと上がっていた体温が引いていくと、頭の中にあった疑問が干潮時の砂浜の貝殻のように顔を覗かせた。僕は思い切って聞いてみることにした。
「彼、途中からずいぶん雰囲気が変わったような気がします。」
ボスは僕の隣にやって来て、モニターを覗き込んだ。
「僕が機材の確認に行ってる間に、特別な事を...なにか声をかけたりしたんですか?」
ボスは手に持ったコーヒーを一口啜ると、モニターから目を離さないまま僕の質問に答えた。
「私が彼に言ったことは2つだけだよ。『アメリカに無事到着したって、誰かに連絡した?』っていうのと、あともう一つは...」
ボスは画像から目を離し、僕のほうを向いた。
「『君は僕に撮られる為に、海と大陸を越えてはるばるこの街にやって来た。だから約束してほしい。普段、隠したり抑えたりしてる事があったら、今日はそれを全部さらけ出してみてくれ。』」
全てのパーツがカチリとはまって、僕は唸った。
「さすがですね。」
ボスは口の端をちょっと上げることで僕の賛辞を受け止めると、そのままPCの電源を落としながら言った。
「今夜はもう終わろう。君もたまには恋人とゆっくり過ごすといいよ。」
ボスは僕にウインクを投げると、デスクにコーヒーを置いて伸びをした。とっ散らかった気持ちと筆記用具をまとめてバックに入れ、部屋を出ようとした僕の耳にボスの声が届いた。
「君は大学で文学を学んでいたんだよね。」
突然の話に驚いて振り向いた僕を見て、ボスは続けた。
「今度、詩を書いてきてくれないかな。」
「...もしかして、それが僕を採用してくれた理由ですか?」
それには答えず、ボスは僕に向かってヒラヒラと手を振った。
「良い夜をね。」
オフィスが入っているビルを出ると、人のざわめきやトラフィックの音がワッと僕を包んだ。そんな街の音に何だか慰められているような気持ちになって、僕は摩天楼の灯りを見上げた。
撮影を終えてメイクを落とし大学生に戻った彼は、去り際にホッとしたような表情で「ありがとうございました」と言った。
写真のなかで、彼は自分が望んでいるものをはっきり表現していた。
ただ、彼が欲しいのは僕ではなかった。
今日恋をして、いきなり振られたみたいだ。
僕はそっと息を吐いた。
彼はもう家路についたんだろうか。この街に着いたことを真っ先に伝えた相手に、今ごろ優しく抱かれているだろうか。
高層ビルの避雷針の横に、月が出ていた。
昨日より僅かに満ちてきていて、幸せそうに見えた。
明日の朝起きたら、詩を書こう。
それは、こんな話だ。
明日の夜、いきなり軌道を変えた大きな彗星がこの星に落ちてきて、世界を焼き尽くすというニュースが飛び交う。
みんなどうすればいいか分からず、騒いだり絶望したりするなか、あるふたりが寝室のベッドで寝そべって、お互いの頬に触れながら言う。
じゃあ、このままこうしてていいんだ。
今、広い世界のどこかにいるそんなふたりのことを想って、僕は幸せな気持ちになった。