待ってくれよ。
夜のテーマパークで、男は前を駆けていく息子を早足で追いかけていた。
クリスマス前には息子に弟ができる予定だが、妻は体調を崩して入院している。
とりあえず母子の命に別状はないときいて安心したものの、妻はしばらく安静にするため入院となり、そこから男の大変な日常が始まった。
朝は息子を起こすところからスタート、朝食、保育園の準備、園への送り、仕事の後はお迎え、帰宅したあとは夕食にお風呂、やっと就寝という毎日だ。
慣れない生活は穴だらけで、つい先日も園でのハロウィンイベントで仮装するための衣装を持参し忘れて、子供に泣かれる始末だった。
妻の存在のありがたみを噛み締めつつ、ここで自分たちふたりが参ってしまう訳にはいかないと、男は一計を案じた。
会社を早退し保育園で息子を迎えた後、そのまま車で息子を連れ出す。
海の近くにあるテーマパークは、家族3人で行った楽しい思い出がある場所だ。
夜のパレードだけでもきっと喜ぶだろうと思ったのだった。
案の定、スーツ姿ではないラフな格好で園に現れた父親に驚くところから始まり、車の行き先を知って息子は大はしゃぎだった。
飛ぶように車を降りてからずっと駆けっぱなしで、男は息子を見失わないよう、追いかけるのに必死にならなければならなかった。
比較的空いていたティーカップに乗ったあとも、息子のテンションはそのままだった。
たった今も息子を追いかけながら、頭の上にあるネズミの耳のカチューシャが落ちそうだと注意しているのだが、父の声はまったく耳に届いていないようだった。
そうしているうちに、予想通りカチューシャは息子の跳ねる頭から抜けて地面に落ちた。
本人もそのことに気がついて振り返ったが、足元が暗いうえに通行人が行き来し、見失ってしまっているようだ。
男は誰かに踏まれないうちにカチューシャを取ってやりたかったが 、人が多いうえに両手がジュースとチュロスで塞がっていてすぐに行動できない。
物を抱えすぎて身動きが取れない自分の姿が、慣れない生活に苦労している自分そのもので笑ってしまう。
その時、誰かの手が伸びてきて黒い耳の飾りが持ち上げられた。
カチューシャを拾った黒い影は、落とし主である男の息子を見つけると、身を屈めて耳を渡した。
男は慌てて息子に駆け寄り、礼を言おうと顔を向けてみると、影のようだと思ったのはブラックの上下に身を包んだ若者だった。
大学生くらいの歳だろうか。 革のような鈍い光沢のあるタイトな服が細身の体を従順に覆っていて、まるでミュージシャンのような雰囲気だ。
男は、ジーパンにニットという自分の服装を顧みながら、最近の若者はこんな格好で遊園地に遊びにくるのかと思った。
すみません、と言うと、若者は無言で微笑んだ。
すうっと目が細くなり、ふわりと持ち上がった頬が周りのイルミネーションを柔らかく反射して、印象がずいぶん優しくなる。
よく見ると頭にはグッズの大きな帽子をかぶっており、テーマパークを楽しんでいる感じはある。
デートかな、と思ったその瞬間、誰かがスッとその若者に身を寄せてきた。
その人物は、帽子の彼と同じような歳の青年で、これまた同じように全身ブラックだったが、服のラインは比較的ゆったりしている。
その彼が、聞き取りにくいぼそぼそとした声でカチューシャを拾ってくれた若者に話しかけると、相手は短く答えた。
なにかあったの?
この子の耳を拾ったんだよ。
そういう会話だったのだろうが、 流れてくる陽気な音楽のボリュームが大きく、聞き取ることができない。
後からきた青年はチラリと男と息子を見ると、やっと頬の線を緩めた。
その目は黒々として大きく、鹿の瞳のように光をたたえている。
男は、その青年が気になった。
相手に起きた全ての出来事を自分は知っておかなければならない、というような、余裕のない切羽詰まった空気を感じたからだった。
それは、妻が息子を見る表情と少し似ていた。
息子の身に起きたことが、彼自身にとって良かった事なのか悪い事だったのか確認しておかなければ、というような雰囲気がいつも彼女にはあった。
goodかbadか
どちらかしかないわけじゃないのに。
badに隠れてるgoodもあるだろ。
少し過保護気味の妻を見て、そう思うことがたまにあった。
男は、彼女の優しい笑顔を想った。
けれども、そういう愛のようなものに包まれて、守られるほうも守るほうも、互いに成長していくのだろう。
「ありがとう!」
息子は帽子の若者に大声でそう言うと、パレード見に行こうよ、と男の袖を引っ張った。
その姿に、鹿の瞳の彼が笑う。
笑うと、彼はずっと若く幼く見えた。
そうだよ、笑っていこう。
男はそう心の中で呟き、ふたりに会釈した。
ふたりは手を振り、その場を去っていく。
男も、今度は息子にチュロスを持たせて空いた手で息子の手を握り、パレードの賑わいを探して歩き出した。
そしてそのとき、あのふたりを見たのが初めてではないことに気がついた。
ここに着いてすぐに乗ったティーカップ。
黒ずくめのカップルがくるくる回りながら、自分たちのカップに近づいたり離れたりしていた。
楽しそうな笑い声を彗星のように跳ねさせながら体をのけぞらせている相手を、彼のほうがカメラで撮っていた。
一緒に楽しんでいるというより、記録に一所懸命になってるような、彼の姿勢が男の心に残っていた。
その笑顔を見たくてここに来たんだ、というような、そんな気持ちが笑い声と合わさって弾けているかのようだった。
君たちだったのか。
男は心に浮かんだいろんな憶測や感情をそれ以上追うのはやめて一度後ろを振り返ってみたが、ふたりはもう見えない。
笑っていこうな。
男は最後にもう一度、心のなかでそう声をかけて前を向いた。
賑やかな音楽と歓声が近づいてくる。
パレードはすぐそこだ。