これは、どこかわからないどこかの物語。
彼女は、その青年と森のなかで出会った。
細い紐のような植物に足が絡まって、身動きが取れなくなっている鳥がいた。どうにかその鳥を助けてやりたくて、そっと近づこうとしたとき、彼女は茂みのなかに獣がいることに気づいた。黒々とした大きな体を持つ、あれは危険な動物だ。腹を減らしたときには村まで下りてきて、人を襲うこともある。
声を出したら、きっと獣の注意をこちらに引きつけることができる。しかし、彼女はあの獣には太刀打ちできない。おまけに、彼女の背後にはまだ幼い息子もいる。取るべき行動は明白だったが、彼女は立ち尽くしていた。今の彼女には、判断することができないのだ。口の中が干上がり、足先が冷たくなっていくのを、彼女が感じたそのとき。
獣が急に引き攣るように倒れた。
なにが起きたのかわからず、彼女が呆然としているところに現れたのが、その青年だった。
彼女に名前はない。
あるのは生まれ育った村の名前だけだ。あるとき、王が人々に名前をもつことを禁止してしまった。それは、すべての人々が役割を持ち、社会の役に立つべきだいう考えからだった。
それ以来、医者、先生、料理人、木こり、人々はそのように呼ばれ、彼女は「お母さん」と息子から呼ばれた。それが彼女の名前だ。 川のそばの村の、母。
獣が倒れてしまうと鳥はずいぶんおとなしくなったので、彼女は鳥に近づいて、その脚に絡まった植物を持っていたナイフで切ってやった。
鳥は一度大きく羽根を伸ばし、それから飛び立った。
その鳥は、人々のあいだで天上鳥と呼ばれていた。熾火のそばの灰のような色の羽根は、内側にいくほど白くなる。メスの頭には金色の、オスの頭には銀色の細長い鶏冠がついていて、それが神様が首に巻いている布に似ていることから、 天上鳥という名前がついた。
天上鳥は何百年も生きるといわれている。
滅多にお目にかかることのない、その伝説の鳥の脚は、骨張った見た目から想像するより柔らかく、地上にあまり降りない一生を想像させた。きっと神さまの近くで毎日暮らしているから、地面に降り立つことなんて考えないんだろう。
あの鳥に触れたことで、運を授かる。
そんなふうに、なるといいのだけれど。
彼女は遠くなっていく鳥を見てそう思った。
青年は鳥が自由になったのを見届けると、額にかかった黒い髪を鬱陶しそう払いながら、獣はしびれ薬で気絶しているだけだから早くここから離れようと言った。
声は少し高めで柔らかく、その柔和な顔つきと相まって、彼の見た目の性別をあいまいにさせていた。
とにかく、青年の言うとおりだとしたら、早く動いたほうがいい。彼女は息子を抱くようにして、 身を翻した青年のあとをついていった。
青年はひとりではなく、同じような年頃の男性の連れがいた。
こちらは青年と比べると体つきがしっかりしいて、同じように黒々とした髪には少しウェーブがかかっていた。
ふたりは、その体の線や肢体の大きさなど、いろいろなものが対照的だったが、それでいて何故かとてもよく似ていた。
連れの若者の背は高く、耳の付け根から首にかけての肉づきからして、身体が鍛えられている感じがあった。
必要なものがあれば、その長い腕を伸ばして手に入れ、邪魔なものがあれば、その大きな手で払い除ける。そういうことができそうな彼だったが、思いのほか狭い世界に生きているようにも見えた。
というのは、彼がずっと、彼女に声をかけた青年の側から離れないでいるからだ。
森を歩いている途中、背の高い彼は、彼女たちがちゃんと着いてきているか後ろを向いて度々確認したが、それも相方にそうするように言われたからだった。
どこへ行くの?
しばらくして、先頭を歩いていた青年が彼女に聞いてきた。
国を出たいの。
青年は、ちゃんと彼女のほうを振り返ってその答えをきいたが、そう、と言うと、すぐ前に向き直ってそのまま歩を進めた。
そのまま会話もなく、しばらく歩いていると、彼女の息子が何かにつまづいてよろけた。
陽も落ちかけて足下が見えにくくなってるうえに、疲れもあるのだろう。息子の歳は、彼女の5分の1ほどしかない。ひとまず危機を脱したならば、そろそろ青年たちと別れて自分たちのペースで進むべきなのかもしれない、と彼女は思った。
そもそも、彼らはどこに行くつもりなのだろうか?
つづく